少年画報(2)

 

 少年画報社OBでつくる画朋会の文集『桜花らんまん』に、社の歩みを物語る写真が何枚か添えられている。上の写真は最も古い一枚で「昭和23年8月、明々社前(文京区弓町)」と説明が付いている。明々社というのは少年画報社の昔の名前だ。服装から見て真夏の八月に撮影した写真とは考えにくい。春か秋か。あとで述べるように、ここに引っ越したときの記念写真だとすれば、二十三年の春ごろではなかろうか。

 『少年画報大全』に写真の人物説明が載っていて、腰掛けた中列の左端が社長の今井堅、その右が漫画家の上田とし子、右端が平木忠夫、後列は社長の後ろが金子一雄、左端が山部徹郎とある。上田は「フイチンさん」などの作品で知られる。平木は少年画報の初代編集長、金子は二代目編集長として少年画報の黄金時代を築くことになる。山部は昭和三十八に創刊される少年ジャンプの初代編集長を務める。

 下の写真には「昭和24年5月、明々社時代の編集部風景」との説明書き。こちらこそ五月ではなく暑い盛りの七月か八月だろう。左の机に座っているのが編集長の平木で、その右が社長の今井と見られる。あとは不確かながら、社長の手前が山部、右端が金子か。戦後のエネルギッシュな雰囲気が伝わってくる写真だ。

 以下、明々社が少年画報社に発展するまでの草創期を『桜花らんまん』や『大全』のほか、本間正夫『少年マンガ大戦争』(蒼馬社/2000年)に拠って説明する。

 小学館出身の今井が旧知の平木らを誘って明々社を創立したのは、敗戦間もない昭和二十年十月だった。事務所は現在の日本武道館に近い千代田区代官町の旧近衛連隊の兵舎の一角だったという。さて何で飯を食っていこうかという段になって、明々社が最初に目を付けたのが、戦前の紙芝居のスーパーヒーロー「黄金バット」を単行本にすることだった。

 学生時代から黄金バットの絵を描いていた紙芝居作家の永松健夫は、小学館に籍を置いていたことがあり、平木とは机を並べた間柄だった。平木が永松を口説き落とし、二十二年十二月に絵物語『黄金バット』を世に送り出した。B6判四色刷り九十六ページ、三十五円の単行本はまたたくまに五万部売れ、第二巻、第三巻とシリーズ化された。

 大ヒットに勢いづいた明々社は、黄金バットを看板にした雑誌を発刊することを思い立ち、翌二十三年八月、少年月刊雑誌「冒険活劇文庫」を創刊した。左の写真は『少年画報大全』の付録として復刻された創刊号の表紙(黄金バット)。一カ月飛んで十月発行の第二号から小松崎茂の絵物語「地球SOS」の連載が始まり、永松の「黄金バット」と並ぶ二枚看板に育っていった。その後、「冒険活劇文庫」は二十五年四月号から「少年画報」に改題し、さらに二十六年十一月、社名を「少年画報社」に改めた。

 こうした動きに連動して社屋も移転した。二十三年八月の雑誌創刊に向けた準備段階で、千代田区代官町(現北の丸公園)から上の写真の文京区弓町(現本郷一丁目)の一軒家に移った。やがてここも手狭になり、社名を明々社から少年画報社に改めた二十六年十一月、すぐ近くの文京区元町(現本郷二丁目)の一軒家に引っ越した。そして昭和三十四年十一月、千代田区神田三崎町(現三崎町三丁目)に堂々たる五階建ての自社ビル「赤胴ビル」を建てた。

 赤胴ビルを訪ねた足で、二番目と三番目の社屋跡を歩いてみた。壱岐坂の大通りに面した弓町の一軒家跡はすぐにわかった。かなり年数を経た七階建ての細長いビルが建ち、洋紙会社の事務所になっていた。元町の社屋跡はそこから通りの反対側を入り込んだ住宅街の中らしいとわかったものの、なかなか探し当てられない。近所の八百屋で「昔、このへんに少年画報社という出版社がなかったか」と尋ねると、「ああ、それなら、この先の路地を左に入ったところ」と指で示してくれた。近ごろまで少年画報社の倉庫として使われていたそうだ。今では四階建てのビルに建て替わっていて、医療機器販売会社が入居していた。自分の愛読した少年画報がここで作られ、武内つなよしがときどき二階で缶詰になって赤胴鈴之助を描いていたのかという感慨は湧いたが、往時を偲ばせる手がかりは何も残っていなかった。

 

 明々社の「冒険活劇文庫」だけでなく、戦後の混乱期は少年雑誌が続々と登場した時代だった。戦前から続く講談社の「少年倶楽部」を別にして、主な少年雑誌を創刊年月順に並べると次のようになる。太字は一般的によく知られている雑誌。

 データは、石子順造『戦後マンガ史ノート』(紀伊国屋書店/1975年)、竹内オサム『戦後マンガ50年史』(筑摩書房/1995年)、草野のりかず『ぼくらの少年雑誌』(東京法経学院出版/1987年)、およびウエブサイト「プランゲ文庫」による。学年雑誌や少女雑誌は除いた。年月の一部は「月」と「月号」が混同されて可能性もある。

 

  少年クラブ(講談社)1946年4月=少年倶楽部を改題

  少年(光文社)194611

  痛快少年(尚文館)1947年1月=野球少年の前身か/46年創刊説あり

  野球少年(尚文館)1947年4月=のち芳文社へ

  少年ロック(筑波書林)194711

  漫画少年(学童社)194712

  少年少女漫画と読物(新生閣)194712

  世界少年(世界少年社)1948年1月

  冒険少年(日本正学館)1948年1月

  探偵少年(Gメン社)1948年6月

  冒険活劇文庫(明々社)1948年8月=のち少年画報

  冒険クラブ(冒険クラブ社)1948年8月

  東光少年(東光出版社)194812

  冒険ロマン(ミリオン)1949年1月

  世界少年(ロマンス社)1949年1月

  少年少女冒険王(秋田書店)1949年2月=のち冒険王

  天狗少年(曙出版)1949年3月

  少年少女譚海(文京出版)1949年4月=戦前の博文館版とは別

  少年漫画帳(少年漫画社)1949年9月

  おもしろブック(集英社)1949年9月=のち少年ブック

  太陽少年(妙義出版社)1950年4月=のち太陽少年社へ

  漫画王(秋田書店)1952年1月=のちまんが王

  探偵王(文京出版)1953年1月=創刊はもっと早いか/のち三和出版へ

  痛快ブック(芳文社)1953年1月=9月創刊説あり

  幼年ブック(集英社)1953年9月=のち日の丸

  ぼくら(講談社)1955年1月

 

 初期の「冒活」は絵物語に力を入れた雑誌づくりをしていた。それが平木の編集方針であり、自らも本郷弓夫(本郷弓町のもじりだろう)のペンネームで原作を書いていた。しかしこの間、大阪の手塚治虫という医学生が引き起こした「ストーリー漫画」革命は、大きなうねりとなって戦後の漫画界を覆いつつあった。少年画報もこれを無視することはできず、二十六年四月号から手塚の「サボテン君」の連載に踏み切った。五月号からは福井英一の「どんどこドン助」が加わった。これを不服とする平木は会社を去り、絵物語作家の一部も行動を共にしたため、まだ連載中だった小松崎茂の「地球SOS」は十月号限りで誌面から姿を消した。社内のゴタゴタで十一月号は発行できず、十二月号から金子一雄が編集長に就いたのである。

 二代目編集長の金子は、創立から少し遅れて明々社に入った。やはり戦前に小学館に勤めていた縁で今井に招かれた。平木と違ってストーリー漫画への抵抗感はなかったが、戦前の「少年倶楽部」で育った金子には、自分なりに明確なポリシーがあった。「ストーリーがわかりやすいこと。善人悪人の区別をはっきりさせること。善は栄え悪は滅びる」の三原則を編集者にも漫画家にも求めた。単純明快な「勧善懲悪」である。それが、良くも悪くも少年画報のカラーとなり、地方の少年からは圧倒的な支持を得た半面、都会っ子には「ダサイ雑誌」と映ったのではなかろうか。

 編集長になった金子が大きな期待を寄せたのが福井英一だった。「どんどこドン助」に続けて、二十八年一月号から「小粒べんけい」をスタートさせている。この間、ライバル誌の冒険王が福井を起用して二十七年三月号から連載を始めた「イガグリくん」は爆発的な人気を博し、同誌の部数をぐんぐん伸ばしていた。金子の掲げる「勧善懲悪」の見本のようなストーリー漫画でもあった。それに引き換え、「ドン助」や「べんけい」はいま一つパンチ力に欠けていた。「イガグリくんのような時代ものを」という期待を福井に託して、金子が送り出したのが二十九年八月号の「赤胴鈴之助」だった。が、福井の急死で、期待の新シリーズは風前の灯に陥る。それを何とか持ちこたえ、さらには空前のブームにまで押し上げたのが武内つなよしだったのである。

 少年画報が黄金時代を迎えた昭和三十年代前半は、少年月刊雑誌とストーリー漫画の全盛期でもあった。少しでも目立った新人が表れると、各誌の間で激しい引っ張り合いになった。少年の編集長だった小林武彦が「いくらいい作家を見つけてきても、みんな真似されてしまう」と嘆いた通りだ。別に光文社だけが被害者だったわけではなく、互いに足の引っ張り合いをしたまでだ。少年画報で芽を出した武内つなよしがたちまち売れっ子になったことも、前に紹介した通りである。

 先の『戦後マンガ50年史』に面白いことが書いてある。少年雑誌の編集者でつくる横断組織「日本児童雑誌編集者会」と、漫画家の集まり「東京児童漫画会」との間で、次のような申し合わせができたという。なぜか年月が書かれていないが、三十年代なかばごろの話だと思われる。

   申合せ事項

1、無理な原稿は依頼せぬこと、引き受けぬこと。

2、原稿の締切日は厳守する。

3、缶詰や居坐り行為はやめる。

4、原稿執筆の順序をきめ、これを明示して守る。

5、作者は関係雑誌に対して、居所不明にしないこと。

6、編集者は労力奉仕をしない。

7、代作は禁止する。

8、紛議の生じた場合は、双方の合から委員を選出して善処する。

 思わず笑ってしまう。これを裏返せば、漫画家は無理な注文をついつい引き受け、手を広げすぎて締め切りに間に合わなくなり、どうしようもなくなったら雲隠れする、それを防ぐために、編集者は漫画家を旅館などに缶詰にし、間に合わなければ作業を手伝い、最悪の場合は代作を立てて急場をしのぐ――というようなことがしばしば起きていたわけだ。個々のケースは面白おかしい武勇伝として今日までの語り草になっているにしても、全体として見れば漫画家を使い捨てる結果を招き、作家生命を縮めたことは否定できない。

 一方、漫画雑誌の隆盛は、一部の学者文化人や教育熱心な母親たちの間に「悪書追放運動」を巻き起こした。過当競争による粗製濫造漫画だけでなく、一流漫画家のヒット作までも「俗悪だ」「残酷だ」と槍玉に挙げられ、編集者たちは対応に苦慮した。先の「日本児童雑誌編集者会」はそのために作られた連絡組織だった。自分自身の小学生時代を振り返れば、そうした動きは子どもの耳目に入ってこなかったし、いま考えてもどこが悪かったのか理解に苦しむばかりだが、一部の「良識ある」親たちは「ほのぼの漫画」や「ユーモア漫画」以外は悪と決めつけていたのだろう。

 前掲の『少年マンガ大戦争』の巻末に、金子一雄が「よい思い出・悪い思い出」と題する一文を寄せている。

 

 ところで、当時の漫画はどの雑誌でも大体において、現在の漫画と比べものにならないほどやさしい内容であり、おとなしい画風のものばかりでした。それにもかかわらず、一部の評論家・教育者から、「児童雑誌の漫画は俗悪である。悪書である」というきびしい糾弾を受け、たちまち悪書追放の嵐にさらされた時期がありました。

 しかし私は、児童漫画が悪いものであるなどとは毛頭思ったことはありませんでした。もちろん他誌の編集者諸氏も、みなそのような信念であったと思います。そこで、日頃は火花を散らすライバル同士であった編集者達も、この件に関しては一致団結し、『鋭角』という機関紙を毎月発行して、大いに防衛と反撃にこれつとめたものでした。

 この悪書追放問題は、しばらくして一応沈静化したようではありますが、それとは別にその後、社会情勢は年々殺伐化の一途をたどり、漫画にもはげしい内容のもの、きわどい描写のものが台頭しはじめてきました。加えてそれに、スピード感覚を好む傾向もますます高まり、月刊誌に代わって週刊誌がもてはやされるようになって、読者は大方それに移行していきました。

 その結果は、月刊児童誌の相次ぐ休刊という事態を迎え、『少年画報』もその例外ではなかったわけであります。(以下略)

 

 金子にしてみれば、子どもたちに良かれとの信念を持って送り出した漫画が外野席から批判されたことへの反発もさることながら、そうした漫画が通用しなくなったその後の日本社会の変貌のほうこそ、憂うべき事態だと映ったに違いない。

 昭和四十六年(1971年)五月、少年画報は通算二百九十七冊を出して、二十四年間の歴史に幕を下ろした。その直前の二月、金子は「わが子の臨終は見たくない」と言わんばかりに、少年画報社を去ったのだった。