福沢諭吉とアジア(04 脱亜論の意義

 

 前2回で、安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』と、平山洋『福沢諭吉の真実』を取り上げた。中期以降の福沢を否定する安川と、一貫して全面擁護する平山との隔たりがいかに大きいかを見た。改めてここで、01回で取り上げた「脱亜論」に絞って、双方の主張を整理し、筆者の考えを述べよう。

 明治181885)年3月の時事新報に載ったこの無署名論説を、安川は福沢の数あるアジア蔑視・植民地支配容認発言の一つにすぎないとみる。曰く、4年前の明治141881)年に出版した『時事小言』において、福沢はすでに「文明史観からみて蔑視せざるを得ない国は、植民地支配されても止むを得ない」との認識に立っており、翌年の明治151882)年にも、創刊まもない時事新報紙上で「朝鮮の交際を論ず」や「東洋の政略果たして如何せん」といった侵略主義的な論説を掲げていた。その延長線上に「脱亜論」はある、と。

 

 つまり、「脱亜論」の内容にはなに一つ新しいものはないのである。唯一、新しいのは「脱亜」という言葉であり、この表現が直截で分かりやすく印象的な表現であるために、後世の人の記憶によりつよく刻印されることになった。しかし、幕末初期啓蒙期以来、林則徐や洪秀全への愚弄に見たように、欧米帝国主義列強の武力侵攻をともなう強圧外交に対して、「蟷螂の斧」をふるおうとするアジア諸国民を一貫して「野蛮」「未開」「暴民」「土人」の行為と罵り続けてきた福沢諭吉は、もともと初期から「脱亜」の姿勢をとっていたのであり、その自らの一貫した姿勢をここで「脱亜」と表現しただけのことである。(以下略)

 

 一方の平山は、「脱亜論」は当時の朝鮮で起きた現実政治の反映であって、蔑視思想や侵略思想を含むものではない、との見解に立つ。すなわち、前年の188412月、福沢も関与した朝鮮独立党のクーデター「甲申政変」が失敗に終わり、首謀者らの一部は辛うじて日本に逃げ延びたものの、あとに残った父母や妻子が無残に処刑された。その憤りが福沢に「脱亜論」を書かせた、とする。平山は、「脱亜論」に先立って掲載された「朝鮮独立党の処刑(後編)」を引用し、幼児まで処刑したことの残虐さをつぶさに紹介した上で、以下のように結ぶ。

 

 「脱亜論」でアジア蔑視の表明としてしばしば批判されている部分が、じつは「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約に過ぎないことは一目瞭然である。約三週間後に「脱亜論」を目にした読者にはそれがはっきりと分かったはずである。「卑屈にして恥を知らざ」る「支那人」とは清国進駐軍のことであり、「人を刑するの惨酷なるあ」る「朝鮮国」とは甲申政変後の現地の状況を述べていたに過ぎない。

 また、「脱亜論」には文明諸国によるアジア分割の危機が述べられているが、それは日本が文明国の一員として侵略に参加するべきだということではない。そうではなくて、文明諸国から日本も野蛮国であるとみなされるならばその侵略を受ける可能性がある、という意味での日本人に向けた警告なのである。

 イギリス海軍が朝鮮の混迷に乗じて対馬の西方一二〇キロに浮かぶ巨文島を占領したのは「脱亜論」掲載から一ヵ月後の一八八五年四月、また清仏戦争の結果としてべトナムがフランスの植民地となったのは三ヵ月後の同年六月のことであった。

 従来の研究ではしばしば「脱亜論」では日本による大陸分割政策が提唱されているとみなされてきたが、当時の読者と同様にこの時期の論説を一連のものとして読んでみると、むしろ西洋諸国からの侵略の脅威におびえる『時事新報』社説子「我輩」の姿が浮かび上がってくる。(以下略)

 

 1880年ごろの朝鮮では、国王(高宗)の実父である大院君と、王妃の閔妃一族とが敵対していた。これに政治路線が絡んで、支那(清国)との宗属関係を重視する事大党(守旧派)と、日本に倣って近代化を目指す独立党(開化派)との抗争が続いた。守旧派の大院君から実権を奪った閔妃一族は、独立党と結んで開化政策を進めた。その一環として、日本から軍事顧問を招き、新式の軍隊づくりを進めた。これに旧軍兵士が不満を募らせ、1882年7月、反日暴動を起こした。「壬午(じんご)軍乱」である。旧軍兵士らは閔妃一族の政府要人らを殺害し、日本公使館を襲撃した。花房義質公使らは辛くも脱出し、日本に逃げ帰った。暴動を裏で操っていたのが大院君だった。清国政府が鎮圧に乗り出し、大院君を自国に連行して国王と閔妃一族を復権させた。以後、清国の宗主的な立場が強まり、反比例して日本の影響力は後退した。

 こうした中で、金玉均、朴泳孝ら開化派は、国王を擁立して立憲君主制の近代国家を樹立しようと、守旧派に傾いた閔妃一族を排除するクーデターを起こした。これが188412月の「甲申政変」である。以下は山辺健太郎『日韓併合小史』(岩波新書、1966年)や海野福寿『韓国併合』(岩波新書、1995年)による。

 計画では、郵征局の落成式に出席した政府高官を、放火騒ぎに乗じて暗殺する手はずだった。いくらかの手違いはあったものの、金玉均らは王の身柄を確保し、出動要請を受けた日本軍が周りを固めた。だが、軍事行動としてはお粗末だった。朝鮮には清軍が1500人駐留していたのに対し、日本公使館を警護する日本軍は150人しかいなかった。清軍が王宮を包囲すると、竹添進一郎公使はさしたる抵抗もせずに日本軍を引き揚げさせた。開化派政権は腰砕けとなり、わずか3日で崩壊した。クーデターに加わった開化派の多くが殺され、金玉均らは辛うじて日本へ亡命した。

 このクーデターには、現地責任者の竹添が深く関わっていただけでなく、外務卿の井上馨も事前に計画を承知していた。また、金玉均と親交のあった福沢は、朝鮮政府の顧問をしていた門弟の井上角五郎に計画を手助けさせた。守旧派高官を襲撃するための武器は井上角五郎が日本から持ち込んだと言われる。

 こうした歴史的経緯を踏まえて、福沢の「脱亜論」を読み返してみると、なるほど平山の指摘するように、独立党のクーデターに介入して挫折した福沢の「万事休す」という思いが籠もっているように読めなくはない。文中にある「支那人が卑屈にして恥を知らざれば……」や「朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば……」は非難とみるべきであって、蔑視思想の表れだとは、筆者も考えない。しかし、侵略思想もなかったかとなると、平山の見解に俄には同意しかねる。

 「脱亜論」の末尾を見よ。

 「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」

 この表現は、支那朝鮮に対する侵略宣言ではないのか。平山の言うように「文明国の一員として侵略に参加するべきだということではない」「文明諸国から日本も……侵略を受ける可能性がある、という意味での日本人に向けた警告なのである」とは、とても読むことができない。

 日本側が官民協力して独立党のクーデターを後押ししたことは、今日的な政治規範から見れば、危険な革命輸出であり、許されざる内政干渉・主権侵害と言うべきだろう。しかし、福沢にとって、目指すところはあくまで朝鮮の独立であって、侵略ではなかった。独立への足掛かりを失ったとき、福沢は「侵略やむなし」へと一線を越えたのである。文字通りに読めば、それが「脱亜論」の位置づけではなかろうか。

 そうだとすると、最初に紹介した安川の「なに一つ新しいものはない」との見解も再検討する必要が生じてくる。安川が同類だと見なした明治15年の「朝鮮の交際を論ず」はいかなる論説であったのか。

 

 (前略)我輩が斯く朝鮮の事を憂て、其国の文明ならんことを冀望(きぼう)し、遂に武力を用ひても其進歩を助けんとまでに切論するものは、唯従前交際の行き掛りに従ひ、勢に於て止むを得ざるのみに出たるに非ず。今後世界中の形勢を察して、我日本の為に止むを得ざるものあればなり。方今、西洋諸国の文明は日に進歩して、其文明の進歩と共に兵備も亦(また)日に増進し、其兵備の増進と共に、呑併の慾心も亦、日に増進するは自然の勢にして、其慾を逞(たくま)しふするの地は亜細亜の東方に在るや明なり。此時に当て亜細亜洲中、協心同力、以て西洋人の侵凌を防がんとして、何れの国かよく其魁(さきがけ)を為して盟主たる可きや。我輩敢て自から自国を誇るに非ず。虚心平気これを視るも、亜細亜東方に於て、此首魁盟主に任ずる者は、我日本なりと云はざるを得ず。

 我既に盟主たり。其隣国たる支那朝鮮等は如何の有様にして、之と共に事を与(とも)にす可きや。必ずや我国に倣ふて近時の文明を与にせしむるの外なかる可し。若しも然らずして、其国の旧套を存し、其人民の頑陋に任したらば、啻(ただ)に事を与にす可らざるのみならず、又随て我国に禍するの媒介たるに至る可し。輔車(ほしゃ)相依り唇歯(しんし)相助くと云ふと雖(いえ)ども、今の支那なり、又朝鮮なり、我日本の為によく其輔たり唇たるの実功を呈す可きや。我輩の所見にては万これを保証するを得ず。加之(しかのみならず)、不祥の極度を云へば、其国土が一旦遂に西人の蹂躙(じゅうりん)する所と為ざるを保す可らず。

 今の支那国を支那人が支配し、朝鮮国を朝鮮人が支配すればこそ、我輩も深く之を憂とせざれども、万に一も此国土を挙げて之を西洋人の手に授るが如き大変に際したらば如何。恰(あたか)も隣家を焼て自家の類焼を招くに異ならず。西人東に迫るの勢は、火の蔓延するが如し。隣家の焼亡、豈(あに)恐れざる可けんや。故に我日本国が、支那の形勢を憂ひ、又朝鮮の国事に干渉するは、敢て事を好むに非ず、日本自国の類焼を予防するものと知る可し。是即ち我輩が本論に於て朝鮮国の事に付、特に政府の注意を喚起する由縁なり。

 

 確かに、一読した印象はよく似ている。この中に出てくる「輔車相依り唇歯相助くと云ふと雖ども、今の支那なり、又朝鮮なり、我日本の為によく其輔たり唇たるの実功を呈す可きや」と、「脱亜論」に出てくる「輔車唇歯とは、隣国相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は、我日本国のために一毫の援助と為らざるのみならず……」とはいずれも、支那朝鮮がこのままでは、西洋列強のアジア侵食を前にして日本の助けにならない、との危機感の表明だ。ならばどうするか。「朝鮮の交際を論ず」の結論は、末尾にある通り、日本の自衛のためには朝鮮への内政干渉も辞さず、という「強制開化論」である。強制開化は内政干渉・主権侵害ではあっても、相手国内に呼応する政治勢力が存する限りは、歴然たる侵略とは言えない。従って、「侵略肯定論」に踏み込んだ「脱亜論」が単純にその延長線上にあるとする安川の認識には賛成できない。

 そうは言いながらも、福沢が「脱亜論」を書いた時点で、本当に「志那朝鮮への侵略やむなし」と決意していたのかとなると、いささか躊躇せざるを得ない。と言うのも、「脱亜論」の最後がこうなっているからだ。

 「悪友を親しむ者は、共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」

 わざわざ「心に於て」と断っている。「我れは亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」ときっぱり言い切って構わないはずなのに、そうしなかったのはなぜか。「行動に於ても謝絶する」ことへのためらいがあったのではないか。そう考えると、「度し難い国だ。どうなろうと、もう知ったことか」という心の呻きのような気もしてくるのだ。

 時事新報掲載の論説を収録した『福沢諭吉選集・第七巻』(岩波書店、1981年)の解説で、坂野(ばんの)潤治は「福沢の朝鮮問題への関心は、金玉均ら開化党の台頭とともに高まり、その敗北とともにしぼんだ」との見方に立って、次のように記す。( )は原文のもの、〈 〉は筆者の補足。

 

 福沢は『時事小言』刊行の数カ月前に、朝鮮国内における「改革派」がきわめて前途有望に思えたときに、朝鮮の近代化を助けるという課題に強い興味を示した。しかし朝鮮国内における金玉均ら「改革派」の立場は福沢が『時事小言』を書くころまでには、きわめて悪化していた。このため福沢は、隣国の近代化推進者を支援するという民間思想家として何ら恥ることのない課題を乗り越えて、日本政府に、武力行使を含めた朝鮮内政改革派の援助を要求するという点にまで、『時事小言』を書いた時点で追い込まれていた。この立場は明治十五年(一八八二)三月の「朝鮮の交際を論ず」という『時事新報』社説においても繰り返されている。しかるに事態は福沢にとってはさらに悪化し、十五年七月の壬午事変によって親日=改革派は政府の要職から排除されてしまった。このため福沢は朝鮮占領論かとも思われるような激越な干渉論を『時事新報』紙上で展開し、また同年十一月刊の『兵論』の中では対清開戦準備のための軍拡論を唱えるにいたったのである。さらに福沢は安南〈ベトナム〉問題をめぐる清仏間の対立の中で、清国の弱体性が次第に明らかになると、一層積極的、具体的な内政干渉に干与し、金玉均ら親日=改革派が日本公使館と共謀して起したクーデター(甲申事変)にかなりな程度までコミットしていくのである。甲申事変が失敗して、改革派援助による朝鮮近代化=親日化政策が完全に失敗したことは、福沢にとっては、朝鮮問題に関する明治十四年初頭以来の状況構造が根底から変化したことを意味した。このとき福沢は、朝鮮国内の改革派を援助しての近代化政策をこれ以上追求することは無意味であることを宣言するために「脱亜論」を書いたのである。

 これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。(以下略)

 

 板野の見解は要するに、「脱亜論」を額面通りに支那朝鮮への「侵略肯定論」と読むのは間違いであり、福沢の目指した「アジア改造論」が足掛かりを失った敗北宣言と読むべきだ、というのである。

 小泉信三は、著書『福沢諭吉』(岩波新書、1966年)の中で「福沢が朝鮮問題に心を寄せ始めたのは明治141881)年の頃からであったと察せられる」とし、その根拠として、福沢がロンドン滞在中だった門下生の小泉信吉(信三の父)らに与えた同年6月17日付の書簡を紹介している。

 「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察の為渡来、其中(そのうち)壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居(やりおり)候。誠に二十余年前自分の事を思へば同情相憐むの念なきを不得(えず)、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦(また)外人を入るゝの発端、実に奇遇と可申(もうすべく)、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其(その)咄(はなし)を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒(なにとぞ)今後は良く附合(つきあい)開らける様に致度(いたしたき)事に御座候。」

 福沢は、自分の若いころを見る思いで、朝鮮独立党の若者に支援の手を差し伸べた。朝鮮の独立という「理」とともに、「情」においても心を動かされたからこそ、のちの「大陸浪人」ばりに、福沢は彼らのクーデター計画にまで関与したのだろう。合理主義者福沢の内に秘められたロマン主義者の一面を見る思いがする。

 以上をまとめれば、朝鮮問題に関して福沢がいかに内政干渉・主権侵害の言説を唱えようと、朝鮮独立党の支援という目的がある限り、侵略肯定論とまでは言えなかった。しかし、その足掛かりが消滅してしまえば、内政干渉・主権侵害はたちまち侵略に転じる。「脱亜論」は、そうした転換点での論説であった。

 それから9年後の明治271894)年、日本は清国との間で戦争に踏み切った。朝鮮に対する清国の宗主権を排除するのが主目的だった。呼応する政治勢力が朝鮮国内に存在しないにもかかわらず、武力でもって朝鮮を日本の支配下に置こうとした。もはやあからさまな侵略行為と言うしかない。そして、福沢は戦争を熱烈に支持した。ここに、福沢ははっきりと「侵略主義者」となったのである。

(記 2009.09.15