大気の吐息――ピンク・フロイド「吹けよ風、呼べよ嵐」(中原和洋)
1971年冬、日曜日の午後。東京・日暮里のアパート。日差しは明るかったが寒い日だった。僕はラジオで音楽を聴いていた。
ん? 無音の時間が長い気がした。と、ヒュゴゥ、ヒュゴゥという風切り音に続いてビビビビビィーン。腹をえぐるようなベースの音。その曲は、僕を嵐の荒野に放り出したかのように揺さぶり、圧倒し、去っていった。ピンク・フロイド「吹けよ風、呼べよ嵐」。僕には未体験の高揚感が残った。「いいな、これ」。夕方には、「吹けよ風――」が入っているアルバム『おせっかい』を買っていた。再生する装置も持っていないのに…。
もう35年前にもなる。この曲との出会いは24歳だった僕の、聴・音楽人生を方向付けてしまう。アルバムのライナーノートとは別刷りの、宇野亜喜良氏の文の一節が目にとまった。「ピンク・フロイドは風の音が好きである 風はいつの日にかの 地球のカタストロフのイメージを胎生する壮麗な情念である」――よくわからなかったが、地球の破局の…壮麗な情念…。僕のラジオじゃダメだな。並のコンポでも無理だよ。ピンク・フロイドが創出したカタストロフの音楽を体感できる装置を用意せねば、と決意してしまった。
不相応なほどお金がかかることはわかっていた。あせらず時間をかける我慢戦略を立てた。だが、道は険しい。翌72年春にプリアンプを購入。夏にメインアンプ、これは中古。アルバム『雲の影』が発売になったので購入したが、『おせっかい』の横に飾るだけ。結婚した妻が不思議そうに見ている。冬、パーツを買ってプレーヤーを組み上げた。まだ音は出ない。資金が尽きかけている。73年、春になった。アルバム『狂気』が出た。買った、飾った。ウ〜ン。スピーカーは一旦、妥協するしかないか。妥協した。「吹けよ風――」が聴ける!
アームを下ろす。針が盤の溝をとらえる。風の音は、嵐を呼び込む大気の吐息だった。ベースは太い稲妻だった。「この曲って…」。妻が横で棒立ちになっている。しかし、圧倒的な空気の塊は、やってこなかった。ラジオで初めて聴いてから、この2年半の間に僕の中の「嵐」が、過剰なまでにふくらんでいたのだろう。自分をなだめながら、『炎』『アニマルズ』『ザ・ウォール』と聴き続けていった。
1980年秋。5歳になった双子の娘たちが僕の部屋で遊んでいた。僕は念願の大型スピーカーシステムを前にしていた。ターンテーブルに『おせっかい』を乗せる。アームを「吹けよ風、呼べよ嵐」の上に持っていく。なんだ、指が震えているじゃないか。そして――。その「嵐」はドカンとやってきた。娘たちがあわてて自分の部屋に逃げた。妻が階段を駆け上がってきた。「音、小さくして! 窓がビリビリ鳴ってるわよ」。「は〜い」と応えてから、頭の中で続けた。「いいな、これ」。10年待って呼び寄せた「嵐」だった。
《師範敬白》
高校時代の友人・中原和洋氏が書いたこの作品が、第4回JASRACエッセイコンテスト「MY LIFE MY SONG〜私の大切なあの歌、あの曲〜」(主催・産経新聞社、共催・日本音楽著作権協会)で最優秀賞に選ばれた。氏は当ホームページの会員ではないし、分量も1200字あって、この欄の原則に反するが、吾輩の周囲では稀有でめでたいできごとであり、門弟諸君の勉強にもなるはずだから、師範の独断で掲載させてもらった。
中原氏は東京の出版社に勤めたあと、定年前の2002年に退社し、現在はフリー編集者。2003年5月から2006年3月までJALの月刊機内誌『SKYWARD』にエッセー(名水探訪、日本の橋景色)を執筆した。現在は生まれ故郷の福岡県志摩町に戻り、自家用野菜作りにいそしんでいる。
氏から送られてきた掲載紙面(3月27日付)を見て、吾輩にはとても書けないエッセーだと感じ入った。どこがどう優れている(もちろん駄目だという意見でも構わない)と思うか、諸君自身が審査員になったつもりでじっくり読んでいただきたい。(記2007.04.10)